富沢ひとし エイリアン9とミルククローゼットを綜合して

 エイリアン、サイボーグ、誤配可能性宇宙

 

 七月十三日、島根で行われたSF大会において、富沢ひとしの『ミルククローゼット』は星雲賞受賞を逃した。以下、本稿は、その野暮ったい怒りのエネルギーによって書きなぐられたものである。

 

 富沢ひとしにおけるエイリアンとはなにか、否、富沢ひとしにおけるエイリアンとはなんであるべき/あらざるべきなのか。これを思索してみたとき、脱構築や浸食、共生といった定式はすべて捨象され、否定の連環が始まる。その末、次のような形式にたどり着く。富沢ひとしにおけるエイリアンとは一つの出来事であって、主体(融合する人間主体)の識に働きかけるものでも、人間主体との組織化を図るものでもない。エイリアンと人間とがお互いに連鎖し、作用しあうことでサイボーグ的な集積の関係性に入り、いずれもが主体としてネットを形成していく。その意味で、極めて有機的な関係でもある。エイリアンと人間、それはともに固有の世界を持っており、また互いに内在の関係に入るという点でともに普遍でもある。だが、これをホワイトヘッド的な内在―抱握の文脈でとらえるには、富沢ひとしの世界は有機的方法論の匂いがしない。

 永瀬唯は富沢ひとしの身体イメージについて、『SFマガジン』上の『ミルククローゼット』評で、サイボーグ的なインターフェイス関係を規定した。『ミルクロ』における富沢の人間身体に対する企図は限定的であり、エイリアンの侵略行為を『エイリアン9』をはるか越えた宇宙スケールにおいて明示することで、人間のサイボーグ性を逆説的に明示しているといえなくもない。また、ポール・ド・マン的な文脈でいけば、少年少女たちの身体をテクストと読み替えることで、彼らの身体をメタファー的なテクストから機械としてのテクストへ移行させることも可能である。むしろ、この身体性は『エイリアン9』においてより色濃く表れる。『A9』におけるエイリアンとの融合は、多分に機械的なものである。少女たちはエイリアンと融合することで自らの正当性を保障され、署名され、封印される。そして、その本質においてサイボーグ的な身体の正当性を超出する。

 これらの《機械》は無限に還元可能な反復であり、有機体としていくつものパトスを有している。テクスト的な表現をすれば、『ミルクロ』における少年少女たちは常に字義的な次元と比喩的な次元を(ル・サンボリックとル・セミオティックを?)回帰し続けることで、常に自らの正当性を目的論的に回復している。彼らのサイボーグ性は、そうした多宇宙レベルの運動と根本的な関係性を保つことで、恣意的で逸脱的だが、不可避的で本来的なものとして表れる。彼らの身体は、究極的には常にル・セミオティック的な場へとたどり直すことができる、もろもろの転移の中に含意として備わっている。その過程において、人間的な意味は幻想として喪失される。彼らにおけるサイボーグとは形象化不能な形象であり、多宇宙をたどることで常に変換可能性を、誤配可能性を産む擬似的な形象ですらある。これはド・マンが用いる「アレゴリー」の使用と同一であり、この誤謬が流通する富沢的宇宙は、諸形象を綜合した欲望のエコノミーであるといういいかたもできる。この宇宙は一見したところ原理的であるが、多分に恣意的である。

 さて、宇宙である。

 富沢ひとしの宇宙は原理的にいえば、クリステヴァ的な「ル・セミオティック」が展開する「コーラ」に最も近い。それは影としてコマの中にある。それはあらゆる普遍的な挙借を暗示している。それは常にあらゆる次元に痕跡を残しているが、完全に復元/再現されるわけではない。多宇宙的な循環は、少年少女サイボーグたちの振る舞いによってその展開が保障されている。少年少女たちが宇宙的な円環を規整し、本来は不確定であるはずの次元の口の両端を調整しながら、思弁的エコノミーの入り口でボロメアンの知恵の輪をいじり続けている。

 その意味で、宇宙を崩壊させ、少年少女たちを消し去ってしまうことは、すべての円環(ロゴス的回帰と復元、サイボーグ再生産および回収、テクストとしての散種)を終わらせてしまうことに他ならない。多宇宙を切開する戦い、円環を開口する裂け目(slit)ないし発端(entame)は単なる汚染として、擬似的、超越論的に執拗な追及を受け続ける。とはいえ、少年少女サイボーグたちと宇宙とは、絶えざる内包的な関係にあり、究極的には互いを抹消することはありえない。少年少女たちは常に抹消線の下に置かれながらも、その効果が受諾されることはない。ここに根源的な動性、曖昧性があり、常に否定と逆転が、そして転移が裏打ちされている。少年少女たちはテクスト的な相互侵入へと解き放たれ、テクスト的に開かれる。そこには湿的な深淵に対する風刺(あるいは充填)があり、たとえ消失したとしても、彼らはその痕跡を強く残している。

 基本的に、富沢ひとしの物語はカタルシス的だが、ポジティブな物語である。

 富沢は少年少女に「自己−再生産する構造」からの離脱を求めており、少年少女に対する圧縮/抑圧の根源を不等号的な物語の働きによって打ち消していく。一方で、『ミルクロ』における富沢はそのテクスト的宇宙の中に、論理的な非完結性と開放性、爆発力を伴わせ、新たなコンテクストを創出しようとする。エイリアン(異者)と融合した少年少女たちはミメーシス的な模造の埒外で自らを確立し、受け入れる(確立され、受け入れられる)。その結果、彼らの思弁的な動作が徴づけられ、宇宙と接続したあらゆる属性が脱構築され、諸効果の位相へと還元されてばらまかれる。この散種は本体部を持っておらず、絶えず序文(preface)的である。この自らを再生産し続ける構造こそが、富沢宇宙の魅力の根源ではないかと私は考える。

 

 本稿が日の目を見る頃、もう富沢ひとしの新連載が始まっているはずだ。また新たなサイボーグ的暴力が生産されることを期待しつつ、私は筆を置こうと思う。



★喜多亘さんが夏コミでご友人の評論サークルの本に書かれたものだそうです。